冨永愛とは
3姉妹の次女で、姉のすすめで読者モデルに応募し、15歳でモデル活動を開始した(1997)。高校3年時、ファッション誌「VOGUE JAPAN」の表紙を飾った1枚の写真が世界へと飛躍する大きなきっかけとなった。当時、焼けた肌にルーズソックスという「コギャル」文化が大流行。冨永は当時通っていた高校の制服姿のままで誌面に登場。ファッション誌では異質であったが、そのギャップと存在感が海外から大きな注目を集めた。
身長179cm、スリーサイズは81-61-88cm。冨永愛は、9頭身のモデルとして知られており、世界的に活躍しています。彼女は、UNDER GROUND(東京)、Marilyn(ニューヨーク/パリ)、Why Not(ミラノ)、Storm(ロンドン)に所属し、日本とパリを拠点にモデルの仕事を中心に活動しています。また、WFP国連世界食糧計画のオフィシャルサポーターや、国際協力NGOジョイセフ(公益財団法人)のアンバサダーとして、社会貢献活動を行っています。2014年には自身の著書『Ai 愛なんて 大っ嫌い』を出版し、美容や健康について語っています。2020年には、『冨永愛 美の法則』を出版し、美容に関するアドバイスを提供しています。2021年には、『冨永愛 美をつくる食事』を出版し、食事による美容法を紹介しています。
本名 冨永愛
生年月日 1982年8月1日(41歳)
出身地 神奈川県相模原市緑区,相模原市立橋本小学校、同旭中学校、神奈川県立橋本高等学校卒業。
身長 179cm
スリーサイズ 81 – 61 – 88
カップサイズ A
股下 / 身長比 92 cm / 51.4 %
靴のサイズ 25.5 cm
血液型 B型
2004年10月にパリ在住の日本人パティシエと結婚。2005年3月に第1子男児の章胤(あきつぐ)を出産したが、2009年4月に離婚した。長男の親権は冨永が持つ。2023年時点では長男もモデルをしており、公称だが190cmあるといわれている。
ランウェイ Ai Tominaga, a Supermodel, in runway
ボン イマージュの馬淵社長より声掛け
冨永愛、杏、福島リラ、すみれ、松岡モナ、森星……。世界で活躍する日本人のトップモデルや人気女優を次々と発掘してきた業界屈指の目利きがいる。国内の有力モデル・エージェント会社、ボン イマージュ(東京・港)社長の馬淵哲矢さん(55)。
「僕と一緒に世界に行こう」。高校生の冨永愛さんに声をかけたのが1999年のこと。以来、冨永さんはスーパーモデルとして大きく飛躍し、その後も世界で活躍する日本人モデルたちを原石から掘り出し続けている。世界で通用する人材の条件とはなにか? モデルの原石を発掘する極意とは?
「海外でも通用する」、冨永愛の写真に直感
真淵氏は話します。――冨永さんと出会ったきっかけは、
「99年に日本で雑誌モデルをしていた高校生の冨永さんを写真で見かけたんです。とにかくスタイルの良さに目を見張った。足の長さ、腰の高さは海外のトップモデルにまったく負けていない。独特なオーラも持っている。『この子は海外でも絶対に通用する』と直感し、面識もないのに本人に会いに行きました」
――当時、馬淵氏はモデルのスカウトマンだったようです。
「僕はボン イマージュのエグゼクティブ・ディレクターという立場で外国人モデルをスカウトするために世界各国を飛び回っていた。北欧、東欧、南欧、北米、南米……。白人の女性モデルを中心に1日100人以上も面接していたが、海外関係者からよく言われたのが『なぜ日本人モデルを使わないか?』という言葉。それまでは日本市場で受ける白人モデルを海外で探してきたので、『逆に日本人モデルを世界に売り出せたら、どんなに素晴らしいことだろう』と思っていた矢先に目に止まったのが冨永さんでした」
「いきなりファッションショーの楽屋に出向き、名刺を渡して『うちの事務所でカメラテストを受けてほしい。僕と一緒に世界に行こう』とお願いしたら、『うん、いいよ~』という軽い返事。でも、いくら待っても連絡が来ない。きっと、怪しいおじさんだと思ったんでしょうね。そこで再度、会いに行き、イマージュがきちんとした会社だと安心してもらうため、休日に東京・南青山の本社に招待した。15人ほどの社員全員にわざわざ休日出勤してもらい、会社の普段の雰囲気を見学してもらったんです。それでようやく信頼してくれました」
――日本版「ヴォーグ」に載った制服にルーズソックスの写真は衝撃的でしたね、と話す。
「あれは写真家レイモンド・メイヤーが撮影した写真です。自前の制服姿でスタジオにふらりと現れた冨永さんを『そのまま撮影しよう』とノーメークのままで撮りました。その写真が評判になり、すぐにニューヨークでデビュー。ラルフローレンなど人気ブランドのショーに相次いで出演が決まるなど大ブレーク。ミラノ、パリでも活躍し、スーパーモデルとして世界に羽ばたきます」
Mikimoto High Jewellery Collection 2021
2023年7月に新会社設立
冨永愛さんは、2023年7月に新会社Crossoverを設立し、モデルや表現者たちのセカンドキャリアを支援する活動を開始しました12。Crossoverは、陳恵晴CEOらとともに設立され、モデルのキャリアステージのサポートを行うことを目的としています。
あわせて、森星、UTAも所属することが伝えられた。
人生100年時代が謳(うた)われる現在、ライフステージ、キャリアステージの考え方はよりマルチなものへとシフトしている。これまで活動寿命が非常に短いとされてきたモデルたちに、年齢と経験を重ね、自分と世界を再発見したその後にも、次なるキャリアの機会を提供したいという想いから、同社を設立した。モデルのみならず、アーティスト、クリエイターなど、自己表現を職業とするすべての人がサポートの対象となる。
主にモデル、クリエイター、アーティストのマネージメント、プロデュース、広報、スキルに合わせた適切なキャリアを切り拓くためのトレーニング、人材マッチング、そしてセカンドステージを成功に導くためのサポートの業務を展開していく。
CEOを務めるのは陳恵晴氏。日本で有数のモデルエージェンシーにマネージャーとして12年間勤務し、自身のグローバルな背景を活かして、国内外で活躍する多くのモデルを育てた経験を持つ。Crossoverの設立にあたっては、構想段階から参画している。
まだまだモデルが長期間に渡って活躍することはとても難しい。同じモデルを続けるにしても、違う職業を選ぶにしても、それまでのキャリアを生かして皆が新たに輝ける場所を提供したい。誰かがやらなければいつまでたってもこの世界は変わらない。
ずっと温めていたことを、ようやく形にすることができました。今後の活動も楽しみにしていてください、と話す。
「高身長がずっとコンプレックスだった」スーパーモデルが世界で味わった『屈辱』と『アジア人差別』それでも冨永愛が“無敵な気分“になれた訳とは?自己肯定感の上げ方と“根性”を語る
冨永愛 慈善事業にも積極的に参加
冨永愛さんは、WFP(国連世界食糧計画)の顧問や、ジョイセフ(女性の命と健康を守るために活動している日本生まれの国際協力NGO)のアンバサダーとして社会貢献活動に携わっています。 また、消費者庁エシカルライフスタイルSDGsアンバサダー、ITOCHU SDGs STUDIOのエバンジェリストも務めています。
慈善活動については、SDGsに向き合う理由として、自分ができることから始めていくことが大切だと語っています。例えば、プラスチック製スポンジをヘチマ素材のスポンジに変えるなど、日常生活の中でできることを実践している。
彼女は、モデル、女優、パーソナリティなど、様々な分野で活躍されています。今後の冨永愛さんに期待することは、彼女がこれまで以上に、自分自身のキャリアをクリエイティブに広げ、新しい分野にも積極的に挑戦することです。また、彼女がこれまでに培ってきた経験や知識を活かし、社会貢献活動や日本の伝統文化を国内外に伝える活動など、多様な分野での活躍を期待しています。