東西ヤクザの代理戦争
西のヤクザ
1993年1月大阪地裁で開かれたイトマン元社長、河村良彦の公判で爆弾発言が飛び出した。
大阪府民信組 前理事長の南野洋の証言だった。
89年1月南野は協和綜合開発研究所社長の伊藤寿永光の誘いで、大阪北区の割烹に出向く。
伊藤のほか日本最大の暴力団‣五代目山口組若頭 宅見組組長・宅見勝とその秘書、それに許永中が揃う。
そこで宅見勝は「今後、この伊藤が雅叙園観光を経営していくので、3人仲良くよろしく頼む」と話した。
イトマン事件の発端は雅叙園観光事件であり、東京・目黒のホテル雅叙園観光を乗っ取った元山口組系暴力団組長のコスモポリタン会長、池田保次が手形を乱発して失踪。
債権者である許永中,南野洋は伊藤を交え被害者同盟を結成し、雅叙園観光の手形の後処理に臨む。
そして債権の肩代わり先として狙いを定めたのがイトマンだった。
伊藤がイトマン社長の河村良彦と出会うのはこの7カ月後だった。
この日から住銀・イトマン事件は胎動をはじめた。
東のヤクザ
ここに佐藤茂という『最後のフィクサー』と呼ばれた男がいます。前回でも触れた旧川崎財閥の資産管理会社・川崎定徳の社長といった表の顔とは別に、政財界と裏社会を結ぶもう一つの顔を持っていた。
住友銀行が悲願の首都圏進出の為平和相互銀行の買収を果たす立役者だった。
平和相互の創立者小宮山英蔵が亡くなり政治家や総会屋、右翼などが平相に群がり、同行は「闇社会の貯金箱」と呼ばれるほど」、放漫かつ乱脈経営に流されていた。
平相の未亡人である美佐子が思い余って小宮山一族の株式すべてを全くの第三者だる佐藤茂に売却してしまう。(財界の大物、今里広記より、小宮山兄弟を助けてやってくれとの依頼があった為)
買収資金はイトマンの金融子会社イトマンファイナンスが用立てた。
又、稻川会二代目会長の石井進は平相の小宮山英蔵と親しい関係にあった為、石井は平相に押し寄せてくる右翼、総会屋、暴力団に対する防波堤の役割を果たしていた。
石井への謝礼は平相系列の太平洋クラブが開発中だった岩間カントリークラブの譲渡だった。これは佐藤と住銀会長の磯田との間で決められた。その後、岩間カントリークラブを舞台とする東京佐川急便事件へと発展していく。
住銀・イトマン事件は、住銀の守り神となった佐藤茂と、イトマンを喰って住銀に駆け上がろうとしていた伊藤寿永光の対決だった。それぞれのバックには大物ヤクザが控えていたことで、東西の暴力団の代理戦争といわれた。
そして佐藤茂が河村、磯田の強力助っ人としての伊藤をイトマンから排除すべく、当時、伊藤の後ろ盾になっていた山口組若頭の宅見勝を懐柔して、イトマンから伊藤を排除し、その事実上の繋がりから、イトマンと絵画取引等を行っていた許永中もともに排除し、住銀が危惧していた暴力団山口組による住銀への浸食を食い止め、その窓口となった河村、磯田を追放したものだったのです。
伊藤、許両氏がイトマンに接近した意図
許氏らは1980年代前半から関西の経済事犯でたびたび暗躍がささやかれながら摘発を免れてきた。日本レースを乗っ取って手形を乱発したり、近畿放送(KBS)の社屋や放送機材を担保に借金を重ねたりする自転車操業を繰り返していた。
倒産寸前だった上場企業・雅叙園観光の再建に失敗し、多額の借金を抱えていた。貸し手は暴力団関係筋が多かった。そんな折に2人の前に現れた河村氏は「ネギをしょったカモ」であり、イトマンは打ち出の小槌だった。
大阪地検の捜査は、それまで手つかずだったアングラ勢力の暗躍を許す関西の土壌に切り込んだ。伊藤氏、許氏と暴力団のつながりを指摘し、彼らがのし上がっていく過程でいかに暴力団の力を利用し、借りを返してきたかを冒頭陳述で詳述した。
イトマンの役員室に山口組組員が出入りしていた様子などを挙げて密接なつながりを暴いた。イトマンから流れた資金の相当部分が、株の買い取りや絵画取引、霊園開発名目の融資などで組周辺や右翼団体に流れたことも立証した。そうした点で捜査は画期的だった。
ところが検察は、アングラ勢力に対するもう一方の当事者である住友銀行にはほとんど手をつけなかった。河村氏の動機が不明である理由の1つはそこにある。
メインバンクの住友銀行は、伊藤氏が入社する前からイトマンの変調と河村氏の暴走には当然気づいていた。それでも、同行が首都圏で地歩を固めた平和相互銀行の吸収合併で、磯田氏の意を受けて大きな役割を果たした河村氏に強く意見をすることができなかった。
一方の河村氏も磯田氏のマンション購入の手続きから賃借人のあっせんまでを引き受け、磯田氏の娘婿の会社を物心両面でバックアップした。そもそも事件となった絵画取引の発端は、磯田氏の娘が河村氏に持ち掛けたことである。
河村氏が、山口組との強いつながりが指摘されていた伊藤氏をイトマンに入社させたことで住友銀行もさすがにあわてた。銀行内部で河村氏の去就をめぐり、激しい人事抗争が始まる。河村氏の退任を求める声が銀行内で強まる中、河村氏は伊藤、許両氏が差し出す毒を皿まで食って破滅への道をひた走った。
検察は、河村氏の動機を解明し、事件の全体像を示すために当時の銀行内部の状況を検証する必要があったはずだが、最も重要な証人であり当事者である磯田氏や磯田氏の長女夫妻について、証人申請はおろか調書の証拠申請すらしなかった。
銀行の経営陣のなかで唯一申請した巽外夫頭取(当時)の調書を弁護側が不同意としたのに対し、証人申請もしなかった。意図的に避けたことは明らかだ。
捜査は、広島高検検事長を務めた住友銀行の顧問弁護士(故人)と同行融資3部が描いたシナリオに沿って進められた。銀行をできるだけ傷つけずに、暴力団につらなるアングラ勢力だけを摘出する。関西の検察幹部らは住友銀行の経営陣と定期的な会合を持つなど以前から親密な関係にあった。資本主義の総本山を守り、アウトローを排除する。所詮、検察は体制の安定装置にすぎない。国家権力の都合に合わせて捜査したということだろう。
一銀行員が自行会長の辞任工作
住友銀行でイトマン対策の中心を担った國重惇史氏が2016年、『住友銀行秘史』を出版した。そのなかで國重氏は、イトマンの経営に関する内部告発文書を書き、「伊藤萬従業員一同」と偽って大蔵省銀行局長やイトマンの主要取引先、マスコミなどに繰り返し送りつけ、大蔵省や日銀、新聞を動かしたことを告白している。
驚くべきは、自行の役員全員、そして磯田氏にも告発文書を送り付けていることだ。河村氏らの乱脈を告発するだけではなく、伊藤氏に籠絡された磯田氏を辞任に追い込む工作を一行員が主体的に行っていたのだ。
國重氏と相談しながら文書の投函にかかわり続けた元日本経済新聞記者の大塚将司氏も2020年12月に『回想 イトマン事件』を出した。國重氏が文書を送り、その反応を見るため大塚氏が磯田氏宅などを夜回りする。まさに二人三脚、マッチポンプでコトを進めてゆく様子は両書に生々しく描かれている。銀行員、新聞記者とは思えぬ所業だった。
國重氏が複数の他社の記者とも付き合っていたことは当時からわかっていたが、大塚氏とここまで一体化していたことは両書を読むまで知らなかった。
両書に加え、國重氏を取材した『堕ちたバンカー』(児玉博著)は、司法が手をつけなかった銀行内部の暗闘や大蔵省の対応、マスコミの関わりなどを明らかにした点で意義がある。銀行内部の様子が相当程度明らかになり、欠けたピースが一部埋まったからだ。
『住友銀行秘史』には、読売新聞の記者が許氏にインタビューした際の録音テープを住友銀行に渡していたとのくだりが出てくる。同じ事件を他社の記者がどのように取材していたかを知る機会は少ないので大変興味深く読んだが、大塚氏の行動ともども、取材とは何か、記者はどこまで対象にコミットすべきか、改めて考えさせられもした。
國重惇史:
山口県生まれ、日本の実業家。東京大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)入行。
楽天証券社長、同社会長、楽天銀行社長、同社会長、楽天副会長などを歴任した。
「イトマン事件」を告発し、住友銀行を闇の勢力から護(まも)った金融界のヒーロー、と言えばかっこいいが、たびたびの「不倫」で出世や地位を棒に振った破茶滅茶な男だった。銀行員に収まりきれない熱血漢で、内部告発や大蔵省への工作など危ない橋を渡り、銀行を離れた後もネット証券、ネット銀行など先端分野で道を開いた。スキャンダルで家族から見放され、「進行性核上性麻痺(まひ)」という完治の見込みがない難病を患いながら、好きな女性に守られて 2023年4月、77歳であの世に旅立った。
家庭も地位もプライドも全て失った奈落の底で書いたのが『住友銀行秘史』(講談社、2016年)だった。これも、正妻との離婚訴訟で多額の慰謝料を請求された為、書いたとされる。イトマン事件を巡る住銀の内部抗争をドキュメンタリー風に再現し、話題の書として売れ行きは好調だったが、住銀中枢部の動きを日記に書き留めたメモは、会長室に訪れた人物の訪問時間まで刻銘に記され、不倫していた会長秘書の協力があったことを天下に晒(さら)した。
【山田厚史の闇と死角】住友銀行の闇 ①(國重惇史氏にきく)