3.『イトマン』

社会

伊藤、許両氏がイトマンに接近

許氏らは1980年代前半から関西の経済事犯でたびたび暗躍がささやかれながら摘発を免れてきた。日本レースを乗っ取って手形を乱発したり、近畿放送(KBS)の社屋や放送機材を担保に借金を重ねたりする自転車操業を繰り返していた。

倒産寸前だった上場企業・雅叙園観光の再建に失敗し、多額の借金を抱えていた。貸し手は暴力団関係筋が多かった。そんな折に2人の前に現れた河村氏は「ネギをしょったカモ」であり、イトマンは打ち出の小槌だった。

住友銀行の捜査はほとんど手つかずに

大阪地検の捜査は、それまで手つかずだったアングラ勢力の暗躍を許す関西の土壌に切り込んだ。伊藤氏、許氏と暴力団のつながりを指摘し、彼らがのし上がっていく過程でいかに暴力団の力を利用し、借りを返してきたかを冒頭陳述で詳述した。

イトマンの役員室に山口組組員が出入りしていた様子などを挙げて密接なつながりを暴いた。イトマンから流れた資金の相当部分が、株の買い取りや絵画取引、霊園開発名目の融資などで組周辺や右翼団体に流れたことも立証した。そうした点で捜査は画期的だった。

ところが検察は、アングラ勢力に対するもう一方の当事者である住友銀行にはほとんど手をつけなかった。河村氏の動機が不明である理由の1つはそこにある。

メインバンクの住友銀行は、伊藤氏が入社する前からイトマンの変調と河村氏の暴走には当然気づいていた。それでも、同行が首都圏で地歩を固めた平和相互銀行の吸収合併で、磯田氏の意を受けて大きな役割を果たした河村氏に強く意見をすることができなかった。

一方の河村氏も磯田氏のマンション購入の手続きから賃借人のあっせんまでを引き受け、磯田氏の娘婿の会社を物心両面でバックアップした。そもそも事件となった絵画取引の発端は、磯田氏の娘が河村氏に持ち掛けたことである。

河村氏が、山口組との強いつながりが指摘されていた伊藤氏をイトマンに入社させたことで住友銀行もさすがにあわてた。銀行内部で河村氏の去就をめぐり、激しい人事抗争が始まる。河村氏の退任を求める声が銀行内で強まる中、河村氏は伊藤、許両氏が差し出す毒を皿まで食って破滅への道をひた走った。

検察は、河村氏の動機を解明し、事件の全体像を示すために当時の銀行内部の状況を検証する必要があったはずだが、最も重要な証人であり当事者である磯田氏や磯田氏の長女夫妻について、証人申請はおろか調書の証拠申請すらしなかった。

銀行の経営陣のなかで唯一申請した巽外夫頭取(当時)の調書を弁護側が不同意としたのに対し、証人申請もしなかった。意図的に避けたことは明らかだ。

捜査は、広島高検検事長を務めた住友銀行の顧問弁護士(故人)と同行融資3部が描いたシナリオに沿って進められた。銀行をできるだけ傷つけずに、暴力団につらなるアングラ勢力だけを摘出する。関西の検察幹部らは住友銀行の経営陣と定期的な会合を持つなど以前から親密な関係にあった。資本主義の総本山を守り、アウトローを排除する。所詮、検察は体制の安定装置にすぎない。国家権力の都合に合わせて捜査したということだろう。

許永中:

生い立ち
1947年大阪市大淀区(現・北区)中津の同和地区と在日韓国人地区の混在した場所に生まれる。許の父親は第二次世界大戦前に日本統治時代の朝鮮の釜山から日本に渡り通名として「湖山」を称した。

1959年(昭和34年)大阪市立大淀中学校に入学。大阪府立北野高等学校進学を目指したが、教諭から合格レベルに届かないと言われて変更、1962年4月大阪府立東淀川高等学校に入学。

国立の大阪大学進学を目指したが、教諭から無理だと言われて大阪府立大学に変更したが入学試験に失敗。1965年4月に大阪工業大学に入学。大学卒業者の初任給が月2万円の当時、大阪工業大学の学費は年20万円も掛かったが、母と姉に工面してもらった。

大阪工業大学では柔道部で活躍するも、麻雀とパチンコに熱中し、3年で中退した。

大阪工業大学中退後は、不動産広告業者の秘書兼運転手として働く傍ら、経営について学んだ。同じ頃に日本人女性と結婚する。「湖山」姓が在日朝鮮人特有の姓であり、ビジネスで不利になるとの考えから交際中に日本人女性の姓である「藤田」を通名とした。

「フィクサー」
部落解放同盟の幹部と昵懇になり、大阪府の同和対策事業に食い込む。

また、第二次世界大戦後最大のフィクサーの1人といわれた大谷貴義にボディーガード兼運転手として仕え、フィクサー業の修行をした。1975年に休眠会社だった大淀建設を買収し社長に就任した。その後、暴力団山口組の宅見勝などとも関係を結ぶ。

1984年、日本レース株買い占め事件で注目を浴びる。また全斗煥韓国大統領の実弟とも交友関係を持ち、韓国政界にも人脈を持つ。 1989年、大阪韓国青年商工会設立。

「イトマン事件」
平成期初期のバブル景気時に発覚した日本の戦後最大規模の経済不正経理事件と言われる「イトマン事件」で、イトマンを利用して絵画やゴルフ場開発などの不正経理を行い、1991年7月23日に商法の特別背任、並びに法人税法違反の罪で逮捕された。起訴された後、6億円の保釈金を支払い保釈を受けた(許自身が3億円を負担し、残り3億円は弁護士団が負担した)。

韓国に逃亡
1997年に妻の実家の法要を理由に裁判所の旅行許可を得て、9月27日から10月1日までの予定で韓国に出国。宿泊先のソウル新羅ホテルで倒れ、同市内の延世大付属セブランス病院心臓内科に入院した後に逃亡。保釈を取り消されて6億円の保釈金は没取された。これは没取額としては当時史上最高額だった。(のちにカルロス・ゴーンがプライベートジェットで密出国し、保釈が取り消されたため2019年12月31日に合計15億円(保釈時10億円と再保釈時5億円)没取され記録更新)

2年後の1999年11月5日に東京都港区のホテル・グランパシフィック・メリディアンで身柄を拘束されるまで国内外で潜伏を続けていた。なお、逃亡中に韓国に渡っていたとの証言もある。

なお潜伏中にも、日本国内で亀井静香や田中森一、松井章圭と会っていたと言われ、亀井はそれを否定しているものの、田中は自書で、松井は週刊誌で会っていたことを認めている(田中はイトマン元常務である伊藤寿永光の弁護人だが、許永中の弁護人ではない)。

現在
2001年に、上記イトマン事件により地裁で懲役7年6か月・罰金5億円の実刑判決を言い渡されたが、その後控訴、上告した。しかし、2005年10月に最高裁で上告棄却決定がされて、実刑判決が確定判決となり、黒羽刑務所に収監された。

また、石橋産業から合計約179億円の約束手形をだまし取った詐欺事件(石橋産業事件)で、懲役6年の実刑判決を言い渡され、上告していたが、平成20年(2008年)2月12日に上告棄却決定がされ、こちらの刑期が加算された。

2012年12月、母国韓国での服役を希望し、国際条約に基づき移送されていることが判明。これにより日本における特別永住者の立場を喪失した。刑期満了日は2014年9月だが、その1年前の2013年9月30日にソウル南部矯導所(ソウル南部拘置所(朝鮮語版))より仮釈放された。

2017年12月、日本のテレビ番組(日経スペシャル ガイアの夜明け)に出演し、その健在ぶりをアピールした。

人物
身長180cm、体重100kgの巨漢で、スキンヘッドがトレードマークであった。
多くの政治家や暴力団、大企業と関係を持っていたとされており、株買い占めや会社乗っ取りなど大型経済事件が起こるたびに背後にその存在が取り沙汰されてきた。また亀井静香とはお互いに「兄弟」と呼び合う程親密な関係であった。これらの関係を結ぶことで「闇世界のフィクサー」「地下金脈の大物」と呼ばれた。
「百万なら人は断るが、一千万なら受け取ってしまう」という、つまり相手の予想を超える金額を示し人を動かす手法で暗躍した。一説には、10億円をその場で差し出し迫ったこともあると言われた。
元極真空手選手の松井章圭と深い関係にあり、大山倍達死後に極真カラテの大会スポンサーになったこともある。
大相撲の横綱免許の家元だった吉田司家とも関係があり、過去に同家で金融関係のトラブルがあった際に事件に介入し、同家が持っていた三種の神器を譲り受けたという。その後それを利用して日本相撲協会に接近し、特に当時の境川理事長とは懇意となった。境川とは「大阪に国技館を作る」という構想で意気投合し、実際にJR大阪駅付近の候補地を二人で下見に行ったりもしたという。
トレードマークの眼鏡は、元々からではなく、若い頃、敵対していた暴力団組織との抗争に巻き込まれ、失明寸前の大怪我を負わされた事が原因で、視力が低下してしまった為である。
在日韓国・朝鮮人の中には、許を「在日の恥」と考える者もいることについては本人も認めた上で「私のつたなさで、結局在日のイメージを貶めたことの反省というんか、申し訳ないという気持ちは間違いなくある」と述べている。
weblio.jp/content/イトマン事件 より

退任を拒否し、イトマン処理の前面に

この30年の間に多くの関係者が鬼籍に入った。住友銀行関係だけでも河村氏をはじめ、「天皇」の磯田氏、「ラストバンカー」と呼ばれた西川善文元頭取(当時常務)、「磯田氏の番頭」であった西貞三郎元副頭取。そして2021年1月には外夫氏が亡くなった。

巽氏は磯田氏に取り立てられて頭取になった。イエスマンともみられていたが、1990年5月、磯田氏から迫られた退任を拒否してイトマン処理の前面に立った。ある住友銀行幹部は「あのとき、巽氏が腹をくくらなかったら銀行は山口組に乗っ取られていた」と話していたのを思い出す。

巽氏は取材した関係者のなかでも印象に残る1人だった。多くの経済人は社会部記者というだけで取材に応じないが、巽氏とは事件の最中だけでなく、一段落したあとも幾度か長く話をする機会に恵まれた。特攻隊の生き残りで、恬淡とした味わいのある人だった。

住友銀行は結局、イトマンへの直接の貸し出しだけではなく他社分も含め数千億円の不良債権を丸抱えする形で「戦後処理」をした。信用秩序の維持を名目にしていたが、実際には司法の裁きを受けない見返りに、磯田氏らトップの公私混同や行内の派閥争いによるトラブルを預金者の金で補填し、決着をつけたということだ。

朝日新聞本社社会部が事件に関わったのは磯田氏が辞意を表明した翌日の1990年10月8日、大阪のイトマン本社であった記者会見に出席して以降だ。つまり日経の大塚氏が國重氏とタッグを組んで特ダネを書き、取材から手を引いた後のことだ。捜査は始まっていなかったが、イトマンはすでに回復不能の死に体だったことが後にわかる。

社会部内の配置換えとなった初日、遊軍席に座ったときに記者会見があることを知った。
遊軍とは、決まった持ち場がなく世の中の出来事に合わせて動く役割だが、上司からその日の社会面のまとめなどを命じられる前に、外に出る口実として同僚とともにイトマン本社へ出向いた。その段階では経済部の守備範囲ということで原稿を書いたわけではないが、「これはひょっとして大ごとになるのでは」と感じて資料を集め出した。

当時は登記簿謄本を見るには法務局に出向く必要があった。金の動きを追うために地上げされた土地の登記簿をあげ、会社の登記簿で役員名や住所を確認して自宅に夜回りをかける。そうした作業を続けていると、司法キャップから「許永中の名前が出てきたりすると、もう事件にはならんなあ。ご苦労さま」と言われた。当時の大阪の捜査当局はそんなふうにみられていた。新聞をはじめとするメディアもまた、独自取材で「関西の闇」に迫ることはほとんどなかった。

バブル経済とその破綻を象徴

1991年の元日の紙面でイトマンと許氏らの絵画取引について特報した。以後、事件が捜査の俎上にのぼると、取材陣の人数は雪だるま式に増え、毎日のように原稿を書くことになった。取材を始めて1年余り、明けても暮れてもイトマン。経済事件と聞くだけではゲップが出そうだった。

朝日新聞のデータベースによると、1991年に経済分野で最も頻繁に名前が登場したのは伊藤氏、2位が許氏、3位が河村氏だった。前年まではまったくのランク外だった3人がこれだけ登場した大阪の新聞紙面(東京本社版には半分も載っていない)には批判もあった。

読者のみならず、社内からも複雑すぎて事件の全体像が見えないと指摘された。まとまった記録を残さないと、後に「何があったかわからない」となりかねないと考えて、初公判が終わって以降執筆したのが、先に触れた『イトマン事件の深層』である。

河村氏らが起訴された同年8月13日、大阪ミナミの料亭の女将、尾上縫氏が有印私文書偽造などの容疑で大阪地検特捜部に逮捕された。7425億円の架空預金証書を偽造し、その証書を担保に4210億円をだまし取った容疑だった。ピーク時の借り入れは1兆3450億円にのぼった。

こちらの図式は単純だったが、イトマン事件と並び、日本中の大手金融機関を巻き込んだバブル経済とその破綻を象徴する事件だった。この日の大阪も32度を記録する暑い一日だった。

30年後のいま、異常な低金利が続き、コロナ対策などを名目に巨額の財政出動が繰り返されている。流れ出す金はどこに向かうのか。尋常ならざる事態はふつうの人々の目には触れないところで進行し、暴騰と破裂はあるとき一気にやってくる。バブル崩壊の痛みの記憶が消えるころ、次の危機がやってくるのかもしれない。

『山口組にイトマン事件で2000億円は検察のデタラメ! 戦後最大の経済事件の当事者 伊藤寿永光さんと30年ぶりの再会』
https://youtu.be/00woJ-86oYU?t=9


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