織田信成の現役復帰に注目
2023年8月 フィギュアスケートの近畿選手権男子フリーが行われ、織田信成が2位となった。
冒頭は4回転トウループ。「q」マーク(4分の1回転不足)がついたが着氷する。その後の6つのジャンプは、コンビネーションジャンプを含めた2度のトリプルアクセルをはじめすべて成功。スピンの1つがノーカウントとなったものの、堂々、フリーでトップに。前日のショートプログラム3位から1つ順位を上げ、試合を終えた。
固く引き締まった表情に覚悟を感じた。織田信成選手(36)が約9年ぶりに現役復帰を果たした。2013年に競技会を離れ、テレビのバラエティー番組などで、明るいキャラクターで活躍していた。そこから一転、突然の現役復帰だった。
20代半ば過ぎで退く選手がほとんどのフィギュアスケート界では異例の36歳という年齢にあって、トリプルアクセルを成功させ、4回転トウループを着氷した。それはまさに歓声を浴びる理由として十分であった。
しかも合計得点230.90点は、単純に比較はできないが昨年の全日本選手権では9位に相当するし、国際大会に出てもおかしくはない点数だ。ただ復帰しただけではない、内容も十分に伴った演技を示した。
試合後、あらためて復帰し、全日本選手権を目指すことを決めた胸の内を語った。
「自分も若くはないですけど、挑戦するなら今かな、と。挑戦すべくして挑戦しているという気持ちがあって。アイスショーをずっと滑っていても、落ちてしまって。スケーターとしての矜持(プライド)、誇りを取り戻したいという気持ちがあって、今はちょっとずつ戻しています」
「生まれも育ちもフィギュアスケーターと思っているので」
自分はどこまで行けるのか。フィギュアスケートのある意味常識を覆す試みでもある挑戦が続いていく。
織田信成が羽生結弦さんの『SEIMEI』を完コピしてみた!
織田信成のプロフィールと家系について
ジュニア時代
スケートを始めたのは3歳。コーチは信成さんの実母、憲子さん。元フィギュア選手でバレエ講師の経験者。名前は戦国武将の織田信長と一字違いで、17代目を自称、ファンからは殿の愛称で親しまれている。そんな信成さんは14歳で出場した全日本フィギュアスケートジュニア選手権で4位、翌年は3位、2位と順調に順位を伸ばしていた。
2004?2005年シーズンからは練習拠点をカナダに移し、2004年の同大会で1位、2005年の世界ジュニア選手権でも優勝し、日本一だけでなく世界一に輝いた。
シニア時代
彼がシニアへ移行したのは2005-2006年のシーズンから。ISUグランプリシリーズ第6戦のスケートカナダで3位、同シリーズ第6戦の日本で開催されたNHK杯では初優勝を果たした。グランプリシリーズは国際スケート連盟が定めた6つの世界大会のことで、グランプリファイナルという決勝戦への出場資格がかかった大会だ。
この当時グランプリシリーズで優勝したことがあるのは、2001?2002年のNHK杯で優勝した本田武史さん、2005?2006年のスケートアメリカで優勝した高橋大輔さんの2名のみ。信成さんは日本男子史上3人目となる優勝者になった。
世界選手権時代
2006年の四大会フギュアスケート選手権でも優勝した織田信成。この当時四大陸選手権で優勝したことがある日本男子は、2003年大会に出場した本田武史さんのみ。信成さんは日本男子史上2人目となる優勝者になった。また、シーズンの締めくくりである世界選手権では惜しくもメダルを逃したものの4位入賞、次回の世界選手権へ出場できる日本男子の人数を1人から2人へと増やした。
信成さんは高橋大輔さんと2人で臨んだ2007年世界選手権でも健闘し、次回の出場人数を3人へと増やす。この人数は日本男子シングルで初の快挙だった。
バンクーバー五輪時代
2008-2009年シーズンではNHK杯と全日本選手権で優勝、2009年の世界選手権では4回転トゥループと三回転トゥループのコンビネーションジャンプに初めて成功、7位になる。同大会6位の小塚崇彦さんと共に、2010年のバンクーバー五輪、日本男子の出場枠3を死守した。バンクーバー五輪には高橋大輔さん、小塚さんと共に出場。信成さんはフリースタイルでスケート靴の紐が切れてしまうハプニングに見舞われ、惜しくも7位だった。
本人の成績は振るわなかったが、高橋大輔選手が銅メダルを獲得した。これも信成さんが日本男子の出場枠、3を獲得したからこそ。日本男子シングルの活躍を第一線で支えたフィギュア選手の一人だった。
引退そして芸能界へ
「鳴かぬなら 泣きに泣きます ホトトギス」
優勝して嬉しい時も、思うような成績を残せなかった時も、そして引退の際も涙を流した信成さんらしいコメントだった。その後はフィギュア関連のコメンテーターや解説者の他、タレントとしても活躍した。
2023年8月復帰!
フィギュアスケートの近畿選手権男子フリーで、織田信成が2位となった。
しかししかし、日本スケート連盟の不適切なサポートにより、日本アンチ・ドーピング機構に対して復帰届を提出が間に合わず全日本選手権には出場できないという問題も抱えている。
以降は前記事に委ねます。
織田信成の家系について
織田信成さんは、織田信長から数えて17代目の末裔であると自称しています。彼は織田信高(おだのぶたか)の系統、または織田信雄(おだのぶかつ)の子孫にあたるとされています。 織田信雄は織田信長の次男であり、織田信高は織田信長の7男です。 信高は関ヶ原の戦いで西軍「石田三成」に味方し、東軍「徳川家康」に敗北した後、領地を没収されましたが、後に許されて領地を与えられ、明治維新まで「織田家」を存続させていました。信成さんの系譜は、織田信高から数えて直接の先祖にあたるとされています。 ただし、系図が二代にわたり途切れているため、現時点では100%証明はできませんが、信成さんは織田信長の子孫であるというのが事実に近いと思われます。(Copilot)
織田君の奥さん茉由さんとウチの娘は友達同士だった
泣き虫キャラでも知られる織田は、「中学1年生の時に席が隣同士」だった茉由さんを「初めて見た時に『この人と結婚する!』と思った」と打ち明ける。6年越しの一途な片思いを実らせ、高校3年生で初デート。で交際が始まったようです。
高校3年の時、茉由さんとウチの娘が国道171号線(通称イナイチ)沿いの明治スポーツクラブ(現在の明治ザバススポーツクラブ)へ二人でアルバイトに行きました。
娘は総合受付で茉由さんはアイススケートの受付に配属になりました。
娘曰く「私は顔では勝ってるから総合受付、でも彼女は何であんなとこ選んだんやろうなぁ」って家で話していました。
ところが後になって織田君が毎日練習に来る。そして織田君と茉由さんが付き合っている。と知って初めて納得したようです。
「織田君の顔は私のタイプと全然ちゃうし、どうでもエエんやけど織田君が海外遠征した時、いつも一杯お土産もらってやる。あれは一寸羨ましいかな」って話していたのを思い出します。
娘も今や2児の母、超イケメンパパと仲良くやっています。
なのでこれも、もう懐かしい昔話なんですね。ただ娘曰く、織田君は高3の頃から良く泣いていたそうです。
織田信成「モラハラ訴訟」敗訴
織田は2017年4月に関西大学(以下、関大)アイススケート部の監督に就任した。しかし、2019年9月に監督を退任。同年11月に会見を開き、濱田コーチによるモラルハラスメントで辞任に追い込まれたことを明かした。そして、精神的苦痛を受けたとして濱田コーチに1100万円の損害賠償を求めて大阪地裁に提訴した。
この訴訟は、スポーツの指導者同士によるモラハラ騒動として前代未聞の事例でした。
選手にとって危険な練習方法だと感じて濱田コーチに意見したところ、濱田コーチが激高し、それから無視や陰口、悪い噂を流されるなどの行為が続いたそうです。約2年半にわたってモラハラを受けていたとして彼は『(年上の濱田コーチと)パワーバランスがあり、監督でありながら決定権がなかった』と涙していました。
一方、濱田コーチは、モラハラの事実はないと争い、逆に、織田さんから裁判を起こされたり記者会見をされたりしたことで精神的苦痛を被ったとして、330万円の慰謝料を求める反訴を起こしていました。織田さんの請求が棄却され、かえって濱田さんの反訴が認められる結果となってしまいました。
こういう結果となった背景には教え子の保護者達の意見だけでなく大学スポーツの構造や単位認定の厳格化などが影響していると考えられています。
織田は、現在も瞬発力を重点的に鍛えている一方で、持久力に不安を残していると語っています。今後は4回転トーループ2本の構成にもチャレンジし、若かりし頃の自分に追いつけることを目指しているそうです。彼の復帰は、スケーターとしての矜持を取り戻したいという強い意志から生まれており、全日本選手権を目指して一歩ずつ頑張っていくことでしょう。見守って行きたいと思います。