4.山段芳春 ―黒幕といわれた男

社会

河庄(河庄双園)との出会い

築地で本店を持つ河庄が祇園で出店した料亭は京都銀行の秋元頭取の兄の自宅だった。兄は滋賀銀行の頭取だったが、在任中にあの奥村事件が起こって引責されたとき手放された物件であった。
のちに、裏に大広間を増築するが、そのとき通された二階の奥の間の欄間にいい彫り物が施されていて、上品な民家の面影そのままであった。

山段氏が初めて訪問した際、客の品定めにまず挨拶にきたのは、年配の仲居頭だった。次に若女将(女将の姪)、最後に「運良く女将が京都に参っております」と保山利子氏が現れた。細身できりっとした美人で頭の回転の早い人だった。
山段氏は京都の店の常連になれば、築地の店も利用しやすいはず。彼は東京にも人脈を持ってはいるが、それはまだ点の分布にすぎない。秘書の安川氏は「築地に本店を持つぐらいだから相当な力があるに違いない。京都で信用を得たら築地の店を舞台に東京の仕事ができる。この店の信用を借りて仕事のランクが上げられる」と山段氏に勧めた。
また普通、素性について秘書が別ルートで調べるものだが、山段氏は仕事上のどんな大物と会う時も事前に経歴など調べさせられたことは一度もない。
女将もただ広告を見て美味しいもの食べに来た客でないことはすぐわかるから、笹川良一に可愛がってもらっているとか、警視庁の幹部がご贔屓だとかさかんに煙幕を張っていた。
帰るとき山段氏は「請求書は京都信用金庫の阿南に廻しといて」と言った。ほんらい山段氏はツケを極端に嫌う性格であり、仮に相手の都合でそうなっても、翌日には払いに行かされるのに。
さすが女将「わかりました」とこともなげに言った。〈蛇足:京信のアナン理事なのですが、山段氏は終始 彼のことをアナミと呼んでいたので聞く方も違和感・・・〉
後に聞いた話では、河庄が京都に出店したのは、東京の常連が京都へ行った時に安心して使える店がほしいことと、築地本店が100名を超える料理人を抱えており儲かりすぎでの節税対策でもあったそう。
そして女将の父は宗右衛門町ですき焼きの「いろは」を、東大阪で旅館「羽衣荘」を経営し、商工会議所の会頭であった。

それからの山段氏の行動は、そそのかした秘書の安川氏の予想を超える入れ込みようだった。

京都信用金庫の幹部会議を河庄で、京都銀行の幹部との懇談会もここ、京都自治経済協議会の「三樹部会」(検察OB・弁護士・京銀と京信の幹部を主要メンバーとして、その他会員企業との交流研修会)の月例会もここ、また会員の呉服商㈱京朋が経営不振だった時には下請けの職人を河庄に集めて会社への協力を懇願し、京朋を守ることが職人の生き残る道だと結束を訴えた。さらに50年になり、京信職員会議は一般会員への研修会を年間53回ここで行っていた。
私も幾度となく研修会に参加して居るうちに、女将さんの美しさと自信に満ちた身のこなしに感銘を受けていました。

山段氏は月に一、二度しか来ない女将に代わって仲居や板前の面倒をよく見たので従業員から慕われ、女将も喜んで任せていた。

以降は中央の政治家・官僚・経営者から作家にいたるまで、ハイレベルで広範な人々を紹介され、東京での大切な席には女将同伴で臨んでいた。
築地の河庄は老舗ではないが、京都の料亭とはイメージの違った新しい企業感覚の店として目立っていた。


Back to top arrow
¥59,980 (2024/08/25 17:34時点 | Amazon調べ)
error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました