5.山段芳春 ―黒幕といわれた男

社会

山段氏の影響力のかげり、そして京都信用金庫の離反

イトマン事件

私のぶろぐ「イトマン事件の深層」のように、許永中氏と伊藤寿永光氏は雅叙園観光の一件で出会っていた。山段氏は河村社長と高柿副社長を河庄に招いて、伊藤氏をイトマンの常務に迎えいれることについて、懸念を示したが、河村社長は「だいじょうぶです」といって意に介さなかった。
あれが大きな分かれ道だった。

また、東京地方検察庁の若い検事は、安川氏に「イトマン事件の発端は京都銀行の株価高騰にある」と説明した。
というのは、京都銀行の株は仕手戦の標的にされ、日に日に高騰していた。そして名古屋の金融業「アイチ」に買い占められていることが判明。
焦る京銀は山段氏になんとかならないだろうかと助けを求めた。相談を受け、山段氏はアイチを相手に交渉ができる者は許永中氏ぐらいしかいないと判断。許氏に株の買い戻しを依願した。また買い戻しに当たっては、巨額の資金が必要となるが、銀行がこの種の資金を用意することも許に融資することもできないため、京信系列のノンバンクであるキョート・ファイナンスが京銀の代わりに融資した
これをきっかけに山段氏は許氏に借りが出来、また、貸した金を回収するため、許氏のほかのプロジェクトを応援せざるを得なくなった。他方、許氏も山段氏にいつまでも迷惑をかけるわけにはいかないとして、金儲けに奔走するが、バブル景気もすでにピークアウト化していたため、許氏はイトマンとの深みに嵌っていく。そして、イトマン事件の発覚で、キョート・ファイナンスの大口貸出先や不良債権の情況が怪文書としてばら撒かれるに及んで、同社に融資していた金融機関は相次いで手を引き、山段氏は決定的な痛手を受けた。
この怪文書とは、私も良く知っている寺岡専務がキョ―ト・ファイナンスを外資系企業に売って正常化させるといったストーリーで各理事をホテルへ呼び出して賛成の署名を集めた、といったものだった。
寺岡専務は解任されるが、バブルがはじけたあと、旧大蔵省検査も厳しくなり、許永中氏と関わったキョ―ト・ファイナンスの責任問題は京信にとって頭の痛いことだった。

さらに同じ時期1989年山段氏と京銀頭取はKBS京都社長に福本邦雄氏を招き、それに竹下登の女婿・内藤武宣も従い常務社長室長に就任した。福本氏は山段氏の、KBS京都を正常化したら京都新聞に合併させるとの構想に沿って動き出す。しかし内田KBS前社長がイトマン事件に絡んで、ダイエーファイナンスから受けた融資の担保に社屋や放送機材が設定されていたことが判明。福本氏は放送免許返上も辞さない構えを見せるが、労組の猛反発を呼んだのみならず「京都唯一の民間放送局を守ろう」との掛け声の下、リスナーやパーソナリティも参加しての広範な抗議運動にまで発展することとなった。結局、1991年6月にイトマン事件でKBS京都が強制捜査を受けた後の株主総会で福本氏は社長を辞任。KBS京都もこれら事件の影響により、1994年9月に経営破綻した。

またそのころから不思議なことが起こる。
よく覚えていますが、右翼の街頭宣伝車が京信本店前や井上理事長の自宅周辺で、井上理事長の個人的なスキャンダルや誹謗中傷をくりかえすのでした。
京信側は「山段がやらせている」として、職員に対しても山段攻撃の姿勢を徹底させるのだが、この街宣車はキョ―ト・ファンドの前にもやってきて軍歌をがんがん鳴らして周囲を回るのだった。
誰が差し向けたのか、どんな意図があるのか未だに分かっていない。
京信の各支店では露骨なキョ―ト・ファンド排除が始まり、人事部よりキョ―ト・ファイナンスやファンドに出向していた職員に「職員会議は解散した。したがって書記局もなくなったから専従を解いて職場へもどってもらう。いやなら退職してもらう」といわれた。
こうして全職員が京信に戻る。中には何期も支店長を経験したベテランがある日、本店の警備員室で職員の通用口で制服を着て案内しているのを見ました。

1996年から翌年にかけて五条署の警部補に数回にわたり物品を提供した贈賄容疑で逮捕状がでるが、1999年3月 病死する。



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