山段芳春の経歴
山段芳春氏は、1930年7月8日に京都府福知山市猪崎で生まれました。生家は裕福な旧家でしたが、小学4年生のときに父を亡くし、以来、母が駄菓子屋を始め、山段氏と姉一人妹二人を養ったそうです。
山段氏は、1947年に京都に出て、京都府警の警官となり、西陣警察署に配属されました。その後、金閣寺派出所詰を経て、東舞鶴に転勤し、ソ連からの引揚者の思想調査を担当したそうです。 朝鮮戦争の前年にあたる1949年、京都に戻って府の渉外課に席を置き、進駐軍の施設警備にあたり、通訳だった後に東映プロデューサーとなる俊藤浩滋と知り合い、娘の藤純子(富司純子)との交友につながる 。
山段芳春と京都信用金庫
1970年頃、京信で大蔵省からの天下りの理事長と創業家の跡取りである榊田喜四夫副理事長との間で人事抗争が勃発。山段氏が紛争解決に奔走し、当時、大蔵大臣であった福田赳夫などと話をつけ、榊田は理事長に昇格した。 この一件を機に、山段氏は京信に深く関わるようになり、榊田からの後押しを受け、京信が融資した先の担保物権に火災保険を付与してその財産価値を守るための損害保険代理業である「キョート・ファンド」を設立。同社は保険代理業が表向きであったが、山段氏は、金融機関の経験だけでは解決できない問題を解決し、行政や地域の住民組織と連携を深めるシンクタンク機能を付け加えた。 また労働組合に代わる組織として「京都信用金庫職員会議」を結成し、常任顧問におさまった。山段芳春氏は、京都自治経済協議会理事長、キョウト・ファンド会長、京都信用金庫職員会議常任顧問を務め、京都の政財界に絶大な影響力を持ち、「京都のフィクサー」と呼ばれた。 京都自治経済協議会は、京都信用金庫や京都銀行の融資先企業の経営者ならびにその幹部社員を会員としており、山段氏の講話のほか外部講師が時事問題を話す例会のほか、ゴルフコンペや研修旅行を開催していた。
また理事長の実家は「橋本織物」という西陣でも指折りの大きな呉服店であったが、私が担当することになりました。
同和問題と「やくざ」
山段氏は古くから同和問題にも関わってきました。京都での運動の歴史に大きな足跡を残した朝田善之助氏やその一派の方とは親しかった。
京都府部落解放同盟の会計中川氏が時限立法であった「地域改善対策特定事業財政特別措置法」の期限延長のため苦労していた頃、山段氏は竹下登氏の実弟竹下亘秘書₍現衆議院議員₎を京都に招き事前協議をもったうえで竹下登氏に陳情する形で、お骨折りいただいた。
また山段氏は世間でいう「やくざ」との付き合いがあったが、本人は仁侠道として暴力団とは区別していた。
発端は山段氏の親戚に兵庫県の労働部長を務めた人がおり、若い頃にその人から神戸の沖中仕をまとめていた松浦繁明氏を紹介されたという。松浦氏がたまたま、のちに任侠道である松浦組を率いて初代組長となり、その組織の幹部であった中谷修敏、川瀬邦造、笠岡和雄(2代目組長)など大勢の知り合いができた。その繋がりで、関西だけでなく、関東にも人脈が広がった。
(松浦組:東京住吉会の源流組織、笠岡総裁は、二代目松浦組を2016年引退・解散し、一匹の極道に戻ったが、まだやり残したことがある。盟友の山口組三代目の田岡一雄親分の精神を現代に伝えるという使命がある。神戸山口組の井上邦雄組長にも陣中見舞いすると言っていた。)
警察は十把一絡げで暴力団・ヤクザと切り捨てるが、山段氏は任侠道として歴史的な存在理由を「必要悪」という表現で認めていた。任侠道の幹部の方々は政治経済の実態に詳しく、政治家・経済人・芸術家・芸能人・プロアスリートなど広い交友を持ち、思慮深く細かいことにも気配りができる人たちだった。
山段氏は人の喜びや悲しみにきめ細かく対応する。京都自治経済協議会の会員や京都信用金庫・京都銀行関係者のみならず社会的な地位や立場に関係なく手厚くつきあった。税務調査があった折に、組関係者への慶弔費だけを抜き出して癒着だと非難されたこともあったが、総理大臣となった宇野宗佑・竹下登・小渕恵三らの政治家(宇野・小渕氏は京都自治経済協議会に出席)にも自分の部下や一般の人たちとも同様に手厚く接した。蛇足だが、私の母の葬儀にも山段氏より献花が供えられ、理事長のしきびより立派だったのを覚えています。