世界的歌姫テイラー・スウィフトが日本をツアーファイナルの地に選んだ理由とは?

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テイラー・スウィフト(Taylor Swift)は、米国のシンガーソングライターであり、偉大なインフルエンサーでもある、またグラミー賞を12回受賞しています。彼女はカントリーミュージックからポップまで幅広いジャンルで活躍しており、その才能と美貌で世界中のファンを魅了しています。

そのプロフィールから

 公式サイト

出生名テイラー・アリソン・スウィフト
生誕1989年12月13日(34歳) アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ウエストレディング
ジャンルポップ・カントリー・ロック・ラップ・フォーク・エレクトロニカ・オルタナティヴ
職業シンガーソングライター・音楽プロデューサー・女優
担当楽器ーカル・ギター・ウクレレ・ピアノ・バンジョー
活動期間2006年 ~

スターダムへの長い道のり

テイラーの名前は歌手のジェームス・テイラーから採られたそうです。
父のスコット・スィフトはメリルリンチ銀行の株式ブローカーをしており祖先は3代にわたり銀行頭取の家系でした。
母のアンドレア・スィフトは投資信託のマーケティング管理であったが、今はテイラーのマネージャーをしています。
かなり裕福な家庭で育ち、9カ月の時に馬に乗せられ英国式乗馬を身につけます。
一家はキリスト教徒としてペンシルベニアのクリスマスツリー農場で幼少期を過ごします。
3つ下の弟オースティン・スイフトは現在は俳優をしています。
テイラーが9歳の時ミュージカルに興味を持ち劇団に入りブロードウェイに定期的に遠征し歌や演技のレッスンを受けた。


その後11歳の時カントリーミュージックに興味が湧き、地元のフェスティバル、喫茶店、フェア、カラオケ、コンテスト、ガーデンクラブ、ボーイスカウトのミーティング、スポーツイベントなどで演奏するようになった。
また多くのレーベルに自分のデモテープを送ったがいづれも低い評価だった。
そこで11歳の彼女は考えた。「この町にいる人は皆私と同じことを考えている。だから皆と違うことを思いつかなくては」と気付く。
そして地元ペンシルベニアを本拠地とするプロ野球チームの傘下マイナーリーグの試合前にアメリカ国歌の独唱を行うようになる。
12歳でギターの3コードを覚え、作曲に集中した。そしてニューヨークをベースに活動する音楽マネージャーのダン・ダイントロウと共に活動を始めた。
14歳の頃ナッシュビルの養成所に通うことになり、両親も応援して家族全員ナッシュビルに引っ越した。
後に彼女は「両親は私にプレッシャーをかけまいと『この町が好きだから引っ越した。心配するな』と言っていた。彼らは音楽業界のことを何も知らず、エンターテイメントとも何の関係もないけれど、私は強迫観念にかられていたため彼らは可能な限りあらゆる手を使って色々調べて私を助けようとしてくれた。私はとても感謝している」と語っている。」
ナッシュビルでテイラーはヘンダーソンヴィル高校に1年生と2年生時に通学した。その後ツアーに対応するため、ホームスクールを行なう私立のクリスチャン・スクールに転校した。平均4.0点を維持し、2008年、2年分を12ヶ月でこなして高等学校卒業資格を取得した。
その後、カントリー・ミュージックに特化した小さなレコードレーベルである、ビッグマシン・レコードと契約を結んだ。当初はカントリーシンガーとして売り出したが、2010年代にカントリー・ウエスタンからポップスに楽曲のスタイルを移行し、現在のスタイルはポップ歌手の傾向が強いものです。

15歳でRCAレコードの養成所と契約し最も若いソングライターとなります。
2004年、ニューヨークのライヴ・ハウスで行われたBMIソングライターズ・サークルのショーケースでの演奏後、ソニーATVミュージックパブリッシングにソングライターとして最年少で採用された。
15歳の時、自身の曲でキャリアを開始したかった彼女は、他のソングライターの曲を歌わせたがり、18歳までアルバムの出版を待つとしたRCAレコードを離れ、またマネージャーのダイントロウとも決別した。

2005年、ナッシュビルのライブハウスであるブルーバード・カフェでのショーケースで、スウィフトは、自身のレーベルであるビッグ・マシン・レコードの準備中であったドリームワークス・レコードの重役スコット・ボーケタから注目された。スウィフトの父はこの新会社の資本金の3%(12万ドルとみられる)を支払い、彼女は最初の契約者の1人となった。カントリー・ミュージック業界への参入において、ボーケタはスウィフトにCMAミュージック・フェスティバルでのエスコート役を経験させた。

2006年6月、シングル「Tim McGraw」がリリースされたが、まだ新しいビッグ・マシン・レコードのためスウィフトと母はラジオ局に送るためのCDを封筒に入れる作業を手伝った。2006年の1年間のほとんどをデビュー・アルバムのプロモーションのため全国のラジオ局をまわり、のちに「ほとんどのアーティストはラジオ・ツアーに6週間を費やすが、私は6ヶ月かかった」と話している。スウィフトは自分の曲をかけてくれるラジオ番組に贈るためにクッキーを焼き、絵を描いた。また多くのテレビ番組にも出演した。


自身を「ネット世代」と表すスウィフトは、Myspaceのページを立ち上げた。これは当時、「カントリー界の革命」であった。16歳のシンガーソングライターのこの決断に対しボーケタは当初眉をひそめたが、スウィフトは10代の少女たちにカントリー・ミュージックを聴いてもらうべく新たな領域に足を踏み入れた。

2007年には、3枚目のシングルである「Our Song」がカントリーチャートで6週連続1位を記録する大ヒットとなった。

2008年 ~ 2009年: Fearlessで、グラミー賞最年少受賞

2008年11月に全米でセカンド・アルバム『Fearless(フィアレス)』をリリースした。
アルバムは発売後1週間で59万2000枚を売り上げ、Billboard 200で初登場1位を記録し、全米で2009年のトップセールスアルバムとなった。
第52回グラミー賞では、『Fearless』が最優秀アルバム賞と最優秀カントリー・アルバム賞に、「White Horse」は女性カントリー・ヴォーカル・パフォーマンス賞と最優秀カントリー・ソング賞に選ばれ、計4冠を獲得した。テイラーは最優秀アルバム賞を獲得した最年少のアーティストになった。

そしてこれまでにグラミー賞を12回受賞しています。
彼女の音楽の成功と多様な才能に感銘を受けることで、テイラー・スウィフトは世界的に有名なアーティストとなりました。


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Taylor Swift – Love Story

「テイラーが日本でライブ!?」世界的歌姫テイラー・スウィフトが日本をツアーファイナルの地に選んだ理由

テイラー・スイフトが2024年2月7日から東京ドームで4日連続で来日公演を行ったことが話題になりました。多くのファンがテイラーに夢中になる中、世界が驚愕するとある報告を直接話しました。
いったいどのような言葉を発したのでしょうか。

日本愛にあふれたテイラーと日本の絆とは・・・
世界の音楽市場で、デジタル音楽配信の売上トップを記録するなど華やかな功績の持ち主です。
グラミー賞を12回受賞したり誰もが一度は聞いたことのある音楽の中にテイラーの楽曲が多くあることでしょう。
そんなテイラーはどのシンガーよりもファンを大事にしていることでも知られています。ファンは総称してスウィフティーズと呼び、いつもファンサービスを欠かしません。人情にあふれ、応援してくれる人々に対し、真摯に向き合うテイラーの行動に心を打たれた方も多いでしょう。

今回のライブで彼女は、日本のライブは特別だと語っています。
彼女が日本に特別な感情を抱くようになったのは2010年2月初来日した時のことです。当時NYマディソンスクエアガーデンのチケットが1分で完売するなど大人気であり、どんどん階段を駆け上がり、あっという間に世界中のティーンを熱狂させる存在になっていたのです。

彼女が10年来の友人と公言しているエドシーランから日本のことについて、細かく聞いていました。彼からポケモンや日本文化が大好きだったことや、日本人は静かに音楽を聴いてくれること、マナーが良い事などを。そして日本でライブを行うことを決意したのです。

最初愕然としたのは初来日のチケットがわずか5分でソールドアウトになるほど注目されているテイラーを一目見たいと空港に多くのファンが詰めかけていました。その人数3000人ほどだったらしくテイラーがゲートから出てくると大歓声が上がったのです。
最近来日したK-POPアイドルでさえ100人前後だったようなのでかなり大注目されていたのでしょう。しかもファンが空港に詰めかけたことで、一時パニック状態になってしまいました。空港の職員が必死に止めにかかるほどファンは雪崩のように押し寄せてきたのです。

テイラーは多くの人が一目見たいと集まってくれたことに嬉しさを覚えていました。その反面、日本人も他国のファンと一緒で、一目見るためなら暴徒化してしまうのかと呆れてしまったのです。何より驚きだったのはエドから聞いていた日本人のイメージとはかけ離れていたことです。「日本はおとなしい人が多い」と聞いていたため、彼女の中で大きなギャップを生んでいたのでしょう。そしてファンに囲まれながらようやく空港内のトイレに辿り着くことができたテイラー、しかし、またしても衝撃的な光景を目の当たりにしたのです。

日本のトイレにはプライベートを保障するための足元まで隠れる扉や手で拭くことを避けるためのウォッシュレットそして音消しの擬音装置などが付いています。日本のトイレメーカーは暖房便座や乾燥に脱臭、ふたの自動開閉など洋式便器に搭載するさまざまな機能を開発、そのため多機能すぎるトイレに驚きが隠せなかったのです。彼女が驚いたのはそれだけでなく、便器の隅々がきれいに掃除されており、ゴミが一つも着いていません。海外では、公共のトイレは汚いことの方が多く、誰も利用したがらないのだとか、テイラーは日本のトイレに驚きを隠せなかったのです。
しかし、彼女の驚きはすぐにかき消されてしまうことになりました。
トイレの外からここに入っていったんじゃないとファンが押し寄せてきたのです。手を洗おうとしても関係なく話しかけてきたり、日本のファンに対して嫌な印象を抱いてしまったテイラー、エドに噓をつかれたのかもしれないと大きくため息をついていたのでした。

空港での出来事のあと彼女は速やかにホテルへと向かいました。12時間という長いフライトとファンが詰めかけてしまったことでかなり疲弊してしまったのです。その後、ホテルで携帯を確認するとエドから連絡が入っていました。メッセージの中には」リンクが添付されており、確認すると「東京で行くべきトップ10!」という記事が書かれていたのです。
日本に着いてからあまり気分が良くなかったことからあまり見る気になれなかったテイラーですが、記事を見るうちにどんどん興味が湧いてきたのだとか、そこで気になったのが原宿」でした。

日本のカルチャーが集結し若者の街の代名詞ともいえる原宿にどんどん興味が湧いてきたのです。翌日テイラーはライブの前に時間があったので、原宿を散策することに決めました。勿論マネージャーも一緒ですが、昨日の出来事を踏まえて周りに気づかれないよう完璧な変装をしていたのだとか。
大パニックになるファンを目の前にしたら、万全の対策をするのも無理はないでしょう。しかし、それよりも興味が勝っていたため、勇気を出して原宿へ向かったのです。原宿の竹下通りを歩いていると昨日とは全く違い、話しかけられることがなかった。これで心置きなく日本を楽しめるとワクワクしながら散策していた。そしてマネージャーとカフェに入ることにしました。
しかし店内ということでマスクや帽子が熱くなり、サングラスまでも脱いでしまった。すると数分後、日本人女性の店員はコーヒーを運んできました。端の席にいたため周りに気付かれることなく会話を楽しめた。しかし店員がテイラーを見た瞬間、はっとした表情をしたのです。
気付かれたことを察しすぐに変装しようと帽子を手に取るテイラー、しかし店員は何事も見なかったようにごゆっくりと言って去っていったのです。
実はこの店員は気が付いたもののプライベートを邪魔してはならないという配慮をしていました。しかもテイラーやマネージャーが外人だと気付き、すぐに英語のメニューまで持ってきた。店員の対応に感動したテイラーは開いた口が塞がらなくなってしまった。これこそ真の日本人の姿に違いないとニッコリ微笑んだのです。

ライブは大成功し、何回も訪れるほど親日家になった。
ライブが終盤に差し掛かった頃、ファンたちに向かって「アイラブユー東京、日本サイコー!また戻ってきたいわ」と片言の日本語で叫んだのでした。
イベント直後のXでは「ワオ!グッドモーニング TOKYOOOOOOOOOOOO!」「この日のショーは絶対に忘れない」「またすぐに戻ってくるから」と興奮気味に語っていました。それから8年間に8回も来日、クリスマスショッピングを日本のデパートでしたり、レピュテーションツアーのステージに和太鼓を取り込んだり日本が好きなことを前面にアピールしています。鉄板焼きが好きで自宅に設置したりと、大の親日家になった。
楽曲の「end game」のMVには東京でのシーンも・・・

これまで音楽とは全く無縁だったご両親の精一杯の家族愛に育まれたテイラーが、今日 世界的な大シンガーに成長したことは非常に喜ばしいことだと思いました。
これからも大活躍されることを祈っています。

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